平和への誓いを読む被爆者代表の松尾久夫さん=9日午前11時17分、長崎市松山町、福岡亜純撮影 |
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昭和20年8月9日、私は17歳でした。当時は、爆心地から1200メートルほど離れた長崎兵器大橋工場に通っていました。その日の朝、いつもの ように母に「行って来る」といって家を出ると、「今夜は帰るのか」と大きな声がしました。振り返ると、母が笑顔で道に立っていました。その夜は、防空当番 で泊まる日でしたので、「今夜は帰らん」と返事をすると、みるみる母が寂しそうな表情に変わったのです。これが母との最後の別れとなりました。この時の母 の姿、声が、今でも瞼(まぶた)と耳に残り、決して消えることはありません。
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工場に着き、昼近く、隣の人達と雑談をしていた時でした。突然、ピカッと閃光(せんこう)が走り、そして背後から「ウワッ」と、とてつもなく大き な音がしたのです。すぐに振り返ると、窓の外は真っ赤な火の海でした。数秒後に強烈な爆風に襲われ、息もできないほど地面に叩(たた)きつけられました。 幸いにも怪我(けが)はしませんでしたが、障害物があまりにも多く、必死の思いで外にでました。すると、工場の屋根は吹き飛び、見渡す限り建物はすべてな ぎ倒されていました。「これはどうしたことか」と、意味が分からず唖然(あぜん)としていました。私が真っ先に心配したのは母のことでした。ふと、母が、 「畑に行く」と言ったのを思い出し、必死で畑へ走りました。しかし、そこに母はいませんでした。次に自宅を目指し、何とか辿(たど)り着くと、その手前で 弟が倒れているのを見つけたのです。よく見ると頭に5センチほどの穴が開いていて、死亡していました。他の家族も心配で隣組の防空壕(ごう)に探しにいく と、その中に姉を見つけました。しかし、名前を呼ぼうと肩に手をかけると姉は冷たくなって死亡していました。「弟に続いて、姉まで死んでしまったのか」 と、初めて、悲しみがこみあげてきました。引き続き母を捜し、途中、大怪我をした女子挺身(ていしん)隊の人を隣町まで運んだりしましたが、やはり母を見 つけることはできませんでした。後日、木材を集めて姉と弟の火葬を見守りながら涙の内に済ませて生前の思い出を胸にえがきながら、二人の白い遺骨を拾い集 めました。結局、原爆で私の家族五人が亡くなりました。母ともう1人の弟や甥(おい)は遺体さえ見つかりませんでした。
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戦争中とはいえ、核兵器の原爆を使用し、無残な悲劇が長崎を襲いました。無防備の、幾万の市民の尊い命を無差別に奪い去り、人道的に赦(ゆる)さ れる行為ではありません。この悲劇が二度と繰り返すことのないよう、世界の国々の指導者に、被爆者代表として重ねて訴えます。又(また)、今もなお、後障 害に苦しむ、被爆者の救済を要望致します。
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現在、世界の国々では、民族間の対立や、他国による侵略等で、紛争が止(や)むことなく続いております。どこの国の人々も、平和の実現を望んでお ります。ことしは福島原発の事故がおき、多くの人が放射能の恐怖にさらされています。私の残りの人生を核兵器と戦争のない世界の実現、また、放射能に脅か されない平和な世界の実現に尽くすことを約束して、私の「平和への誓い」といたします。
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